私は廃墟になりたい
公表という過酷な踏み絵を踏むまでの、おのれの詩人や作家としての才能に対する思い込みは、自分は死なないという若者の思い込みに似て、ナイーブで無害であり……やがてかならず訪れる幻滅もまた、同質の苦痛に満ちている。
私は廃墟になりたいのだと思う。
世の中には嫌いであるにもかかわらず、絵を描く人がいるらしい。絵描きとつながるためだけに絵を描く。それが楽しい。しかし、絵を描くこと自体は楽しくない。
この事実は私に2つの衝撃をもたらした。嫌いなことをしてまで他人とつながりたいのか。そして、絵を描くことに目的が必要なのか。
創作に目的が必要なのか。
数年前、3Dプリンターを作ろうとしたことがある。結局完成していないのだが、まァそれはいい。
友人にこう聞かれた。「それで、3Dプリンターで何を作るんだ?」
私はこう答えた。「そんなこと考えたことなかった」
このとき、私は「作りたいから作る」という気持ちしかなかった。そもそも、何においても私の原動力はそれしかないのだと思う。
作りたいから作る。作品そのものが目的であって、だからこそ創作に目的がないとも言える。でも、それでいいのだろうか?
作品ってやつは、鑑賞者がいないと成り立たない気がする。鑑賞者がいれば、作品には何らかの価値が生まれる。仮に価値なしとされても、そう評価されるだけで御の字だ。鑑賞者のいない作品は、価値のスケールにすら乗っていない。もはや路上の石ころと同じである。
だから作品には鑑賞者を前提としたアレコレが込められる。テーマとか、ターゲットとか、何かしら伝えたいとする想いが。そして、そこには目的がある。共感してほしいとか、ある程度の名誉がほしいとか、それこそ、絵描きとつながりたいとか。
これが私を苦悩させた。というのも、何かを作るだけじゃ腹は膨れないのだ。私は最低限文化的な生活がしたい。作品のための作品と言いつつも、価値を認められ、あまつさえ腹を満たしてくれというのが本音である。
それと同時に、作りたいから作るというスタンスを崩したくないという想いもある。冒頭にあるのは、SF小説『ハイペリオン』から引用した一文だが、私は恐らくこれなのだ。結局、公表という踏み絵を避け続けているだけなのかもしれない。
さて、目的のない作品は評価されないのかというと、実のところそうでもない。ということに最近気づいた。
自然ってのがある。自然には目的がない。いや、もしかしたら目的をもっているのかもしれないが、鑑賞者を想定してはいないだろう。しかし我々は荘厳な山を、雄大な海を、もしくは路上の石ころをも、鑑賞に値するものと見なすことがある。彼らはただ思い思いに己を形作っているだけなのに。
そうすると、作品そのものが目的であってもいいのだ。鑑賞者のことを考えず、ただ自分の、作りたいから作るという考えのままでも、いいのだ。たぶん。
だから私は廃墟になりたい。
ちょうど自然と人工物が半々の。
私が廃墟に魅入られるのも、そういう深層心理から来るものなのかもしれない。