鳩不足

主に自分語り用

無名なルールで地球を回す

「いえ、それが一向目出度くはござりませぬ。」良秀は、稍腹立しさうな容子で、ぢつと眼を伏せながら、「あらましは出来上りましたが、唯一つ、今以て私には描けぬ所がございまする。」
「なに、描けぬ所がある?」
「さやうでございまする。私は総じて、見たものでなければ描けませぬ。よし描けても、得心が参りませぬ。それでは描けぬも同じ事でございませぬか。」
 これを御聞きになると、大殿様の御顔には、嘲るやうな御微笑が浮びました。
「では地獄変の屏風を描かうとすれば、地獄を見なければなるまいな。」

                      ――芥川龍之介地獄変*1

 

 1983年、アメリカでラジオドラマとして放送されたH・G・ウェルズ宇宙戦争』を、「現実の出来事」と誤解し多くの人々がパニックに陥ったという有名なエピソードがある。

 今でこそ一体なにを学んでいるんだ状態だが、一応メディア専攻の学生なので、それくらいは知っとけよという感じで教えられた。この事件はそのまま通信技術の歴史とか、マスコミの異議とかに繋げて語られる。(これがそんなに面白くなかったので留年を続けている)

  確かにメディアとかその手のアレからしてみれば事件だが、しかしフィクションの観点からみると、これは喜ばしいエピソードなんじゃないだろうか。自分の書いた小説が現実に浸蝕するほどの影響力を持つというのは、作品ひいては作家のひとつの極致であるような気もする。*2

 

 しかし、受け手が現実と間違えるほどのフィクションを作るために、作者はどういう表現をすればよいのだろうか。天体を、物理法則を、登場人物の心情を、より精密に描けばよいのか。私が思うに、それでは陳腐な――それこそ何の面白みもない、ただの現実を映したものになるだけではないだろうか。

 

 小中千昭『恐怖の作法』によると、リアルとリアリティは別のものらしい。ホラー映画において大事なのは「本当らしく見える」事であり、観客が求めているものは「本当らしく見せてくれているのか」なのだと氏は語っている。映画内の出来事が現実に即しているかどうかなんて、観客にとってはどうでも良いのだ。

 A・ヒッチコックも似たようなことを言っている。「最近の若い監督は舞台田の小道具だのにこだわるが、そんなことは重要じゃない。カメラが切り取った世界こそが真実だ」とかなんとか。『定本 映画術』に書いてあった。そういえば、氏賀Y太も内蔵描写なんてそれっぽくやることが一番って言ってた気がする。子宮の構造なんて読者はよく知らんやろって。

 

 では、リアリティとは何だろうか。それはルールなんじゃないだろうか。

 

 話は変わるが、私は高校時代、演劇部に所属していた。だからというわけでもないが、今でもごくたまーに観劇しに出掛ける。高尚な趣味ってやつだ。考えてみれば、演劇はとても不自然な芸術である。日常会話をあんな大声でしないし、身振り手振りも過剰だ。わざわざ観客を見て台詞を言うのは当然、正面を向いた2人の掛け合いが行われるなんてこともある。
 しかし、そんな演出でもなお、観客はそれを自然に消化する。それどころか、ものによっては「リアルだった」と感想を残すことさえある。何故ならそこにはルールがあるからだ。演劇の最小構単位は2人(役者と観客)というルールが、客席を意識した不自然な行動を立ち消えさせる。*3こうして、たとえ目に映るものが非現実的であろうとも、そこにリアリティが産まれるのだ。たぶん。

 

 ところで、これらは物語性のある創作への考察だ。しかし私の行っている創作は主にアレ(アンビグラム)である。アンビグラムにはリアルもリアリティもない。いや、ないってわけじゃないんだが、それよりも確かに存在するのはルールだ。ルールがあるのなら、逆説的にそこにひとつの現実――世界を創り上げることも可能だといえる。

 アンビグラムを雑に定義すると、「2つ以上の異なる読み方を同一の文字に落とし込んだデザイン」である。その読み方、つまりルールによって、いくつかの種類に分類することができる。実のところその辺り私はあまり明るくないので、詳しくは以下を参照して頂きたい。

2969.hatenablog.com

repeza.hatenablog.com

 

 さて、前回の記事で「作品そのものが目的であって、だからこそ創作に目的がない」と書いた。

pigeon-shortage.hatenablog.com

 私がアンビグラム作りを始めたきっかけは、「もうネットに公開されている作品は全部見てしまった。しかし、まだ満足できない。もっと見たい」という思いからだった。自給自足といえば聞こえはいいが、本音を言うと仕方なく作っている次第だ。誰かが腹を満たしてくれるなら、わざわざ自分でやる必要はない。私は、究極的にはアンビグラムを作りたくはないのだ。

 

 しかし私が見たいアンビグラムは「敷詰式図地反転」という、残念ながら作例の少ないマイナーなものだった(敷詰ryがどーいうのかは、こーいうのです。拙作且つ雑説明で申し訳ない)。そこで、ここ2年間、この誰も作っていないルールを定着させることに尽力することにした。……してきたんです。実は。

  その結果、ありがたいことにぽつぽつとではあるが作例が増えてきた。そしてとうとう、その極致に達した気がする。

 

 下図は『月刊「アンビグラム」』についての、意瞑字査印氏とのDMのやり取りである。

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 氏からメッセージが来たとき、私は「『陸/海』の敷詰図地、見たいな~~!! ウワァ~それにすりゃよかった! 今やってるの終わったらそれ作るか~~~???」と葛藤した。が、すぐに「……アッ別に俺が作る必要はないのか! 誰か知らんが作ってくれてるのか!! ありがてぇ~~~!!!」と気づき天を仰いだ。

  そう、私はとうとう「私が作らないでも私の見たいものが勝手に生産される世界」という理想郷を創り出すことに成功したのだ。ルールの共有を推し進め、世界を手中に収めたと言っても過言ではない。神にでもなった気分だ。というわけで下々の皆さんは神に献上するための創作をじゃんじゃんやって下さい。

 

 なんか前半と後半で論展開ムチャクチャになってしまった。はい。こちらからは以上です。

 

 

 以下、本文中に登場した文献である。

 

小中千昭『恐怖の作法|河出書房新』

 氏がJホラーを撮る上で徹底してきた「小中理論」など、人が恐怖するシステムを多方面から論じた一冊。個人的には、ネット都市伝説に見られる連鎖型会談「自己責任系」の研究が面白かった。

 

www.kawade.co.jp

 

A・ヒッチコック、F・トリュフォー『定本 映画術|晶文社

 映画界の巨匠2人による対談形式になっており、ヒッチコックが自身の監督作について、そのテクニックや理論を語っている。定期的に借りては読んでるので、もういっそ買ってしまいたいんだが高い。

www.shobunsha.co.jp

 

 

*1:引用したはいいけど、特に教訓めいたものはない

*2:この事件はラジオ演出の妙などによって引き起こされたもので、ウェルズの作品自体によるアレだけではないというのは承知である。

*3:これ大昔にどこかで聞いた気がするのだが、ソースが思い出せない。