鳩不足

主に自分語り用

ダニー・ボイル好きによる『イエスタデイ』感想

 『イエスタデイ』を見た。いや、見てないのかもしれない。ぶっちゃけ私はビートルズが1ミリもわからんので、本当にこの映画を見れたと言うべきかは微妙なところだ。作中に使われた楽曲の意味とか推し量れんし、興味がないから調べようって気も起らんし。結局めんどくせ~オタクだからさ~~~。そういう”周辺知識のなさ”を理由に触れられてない作品がいっぱいあって困る。

 じゃあなんで見たんだって話だが、監督が好きなので仕方ない。ダニー・ボイルについては1センチくらいは知っているつもりだ。なんせ小学生のころ金曜ロードショーでやっていた『ザ・ビーチ』を観て「いやな映画だなあ」と感想を抱いた時からの付き合いなもので。基本的に犯罪映画好きなんだよな。

 

 2020年に見た映画の感想を2022年に書くなよ。

 

※例の如くネタバレを多分に含みます。

 

目次

 

 

『イエスタデイ』とは 

youtu.be

 主人公ジャックはディスカウントストアの店員。幼馴染でマネージャーのエリーに支えられながらミュージシャンとして活動しているが、全く売れずに夢を諦めかけていた。

 

 そんなある日、世界規模で12秒間の停電が発生。自転車に乗っていたジャックはバスに撥ねられ、昏睡状態に陥り入院する。目を覚ますと「ビートルズ」の存在しない世界になっていた。

 なぜかただ一人、停電前の世界の記憶があったジャックは、ビートルズの曲を自分が代わりに歌うことで成り上がろうとするのだった。

 

ダニー・ボイルという監督

 冒頭にも書いたが私はビートルズに興味がない。しかしダニー・ボイルには目がないわけで。「悪い状況にいる主人公が、更に悪い境遇に置かれるも、そこから抜け出し元に戻る」この展開こそが氏の映画の最大の特徴である。最悪こそ免れたものの、元通りになったところで何も解決はしてなくない??? という筋書きばかりだ。ハッピーエンドが嫌いなのかもしれない。

 

 例えば、代表作『トレインスポッティング』のあらすじはこうだ。

 主人公、マーク・レントンスコットランドに住むヘロイン中毒の青年である。どん底の暮らしから脱却するため、薬物断ちを試みるも失敗の連続。仲間たちとドラッグに溺れ、犯罪を繰り返す日々を過ごしていた。

 

 人生をやり直そうと思い直したレントンは、ロンドンへ移住し不動産屋に就職する。真っ当な生活を送り始めたものの、地元に残してきた仲間が原因でクビになってしまう。そんな彼らから、麻薬組織へ大量のヘロインを売却する仕事を持ちかけられる。

 

 麻薬組織との取引は成功に終わり、レントンは皆で一つのことを成し遂げた充足感を感じる。しかしその充足感もどこへやら、彼は仲間を裏切り、稼いだ金を一人で持ち逃げすることに。これを最後に足を洗って、今度こそ真っ当に生きることを心に決めたレントンの顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。

 

 一見ハッピーエンドに見えなくもないが、それは違う。

 大金を得たって言っても、仲間を欺いて独り占めした金だし。人生を再スタートさせるぞったって、そもそも最初から主人公はその心持ちだった。つまりこの映画は、結局のところ結末と冒頭で何も変わってないのだ。レントンはまた必ず、堕ちた生活に戻ってくる。*1

 

 結末が冒頭と同じということは、逆に言えば冒頭から結末を予測できるということでもある。これは実際そうで、ダニー・ボイルは最初に映画のテーマを提示してくれている。トレインスポッティング』の冒頭を見てみよう。

「Choose a job. Choose a career.Choose a family. Choose a fucking big television.

――人生に何を求める? 出世、家族、大型テレビ、

 

  (中略)

 

 Choose your future. Choose life...

――自分の未来を選べ。人生を選ぶんだ。

 

 But why would I want to do a thing like that? I chose not to choose life.」

――だけど俺はごめんだね。俺は求めない人生を選んだ。何かほかのことを。

 

 「人生で何を選ぶ? 出世、家族、大型テレビ、洗濯機、車、CDプレイヤー…それが”豊かな人生”」だと言いつつも、「だが俺はごめんだ」とそれらを突っぱねてヘロインを打つシーンで物語が始まる。この映画の主要人物たちは、何か選択することを拒んでいて、今が良ければそれでいいという刹那的なスタンスで生きている。

 だからラストシーンのレントンを見ても、コイツはまた冒頭の彼に戻ってきただけで結局変わってないんだろうなって思ってしまう。今度こそ真っ当に生きると独白する彼は結局、ヘロインをやめようと思い立つ彼に戻っているだけである。

 

 しかしこの成長のしなさが逆にリアルに感じるのは私だけだろうか。性格が変わるほどの大きなドラマなんてそうそう起こらない。人生なんてそんなもんである。NHKにようこそ!』で柏先輩も「人はそう簡単に変われないから」って言ってたし。これ気になって全巻買って読み返したらそんなこと全く言ってなかった。そんなことある???

 

 他の作品についても同様のことが言える。『スラムドッグ$ミリオネア』では、冒頭に次のような問題がテロップで流れる。

 Jamal Malik is one question away from winning 20 million rupees. How did he do it?

――ジャマールが残り1問で最高賞金2000万ルピーを獲得できるまでになった理由は次のどれか?

 

  A. He cheated
  B. He's lucky
  C. He's a genius
  D. It is written

 

            D. It is written ――運命だったから

 

 で、まさしくこの通りの筋書きの本編が始まる。視聴後、Bの幸運だったから、じゃないんだな~~運命なんだよな~~~ってなるのがめっちゃ良い。

 この法則がわかれば『28日後...』のテーマが「HELLO」だってことも導き出せる。主人公は序盤この言葉しか喋らない。しかしこんなに親切に教えてくれる映画があっていいのか? 正直、頭の悪さと察しの悪さにおいては絶対の自信がある私にとって助かる限りである。ありがとうダニー・ボイル

 

ジャックがビートルズよりも望んだこと

 さて、『イエスタデイ』冒頭で主人公ジャックは何を歌っていた? そう「サマーソング」だ。

Sun's in the sky And nothing can go wrong

――空には太陽 何も心配なし


Kiss winter goodbye And sing this summer song

――冬にグッドバイ サマーソングを歌おう


Whoa whoa whoa I'm gonna sing this summer song

――俺はここで生きていく どこへも行かない


Whoa whoa whoa I'm gonna sing all summer long

――人生はずっと続く夏の日 夏中ずっと歌い続けよう

 

 『イエスタデイ』の舞台は「ビートルズの消えた世界」。仮にこの世界からあなたが敬愛する芸術作品が、その作者が消えたとして、そして己だけがそれを知っていたとして。一体どうするだろうか。自分が彼らに代わってその作品を広めたい、共有したいと思うだろうか?

 少なくともジャックはビートルズを世に復活させたい側の人間だった。だからか、私が視聴後最初に思ったのは「良いと思った作品はどんな手段をとってでも共有しろ! でないと消えてしまうんだぞ! ってことかな~~」だった。っていうか私がそういう考えを持つ人間だからこその感想なんだけど。しかし本旨は全く違う。

 

 先述の通りこの映画のテーマは、冒頭で歌われている「サマーソング」にある。だからジャックの想いは「俺はここで生きていく どこへも行かない」ことなのだ。自分や皆を騙しながらビートルズの伝道者として生きることではない。地元で好きな女性と好きな歌を歌って生きることを望む主人公、この等身大の人間らしさをダニー・ボイルは描きたかったのだろう。

 

『イエスタデイ』の背景にある大きなテーマ

 ところで、『トレインスポッティング』の舞台はスコットランド。登場人物は薬物や犯罪に浸かった若者たち。社会問題に切り込もうと思えばいくらでも切り込める設定だ。『スラムドッグ$ミリオネア』ではスラムの貧困問題や人身売買が背景にあるし、『28日後...』は……何だろう、感染症とか? まァゾンビ映画はあらゆるものがテーマになり得る。ゾンビは日常を映す鏡だから。

 だというのに、ダニー・ボイルはその背景にある大きなテーマを主題にはしない。とにかくひとりの、なんでもないリアルな人生を描くことに腐心しているように思える。だから主人公がどんな世界に住んでいるのか、その背景については話題の外だ。
よって『イエスタデイ』でも、作中一番の謎は解き明かされることなく終わる。なんでビートルズが消えたんだ?

 そんなん理由なんてないし、ただの舞台装置だって言っちゃえば確かにそれで終わりである。でも、そこらへん考えてないんじゃなくて、あえて描いていないだけだと私は信じている。だからこの謎も考えれば導き出せるはずだ。

 

 ビートルズが消えたことで、その影響を受けた別のバンド、オアシスも消えていた。であればビートルズが消えた理由も、彼らに影響を及ぼした何かが消えたせいなのではないか。もっと根本的な何かが消えた結果、連鎖的に他のあらゆるものが消えたに違いない。

 あの世界で他に消えていたもの、コカ・コーラ、タバコ……共通点は薬物では??? 思い出してほしいのだが、ジャックの友人である、ヤク中でアル中で失業中だったロッキーは停電後の世界でドラッグについて何の言及もしていない。当方はよく知らんのだけれども、ビートルズも薬物中毒だったらしいじゃないか。『イエスタデイ』でダニー・ボイルが舞台に選んだのは、薬物が消えた世界だったのだ!!!*2

 

 

 ……という考察を視聴後に友人と話したんだが、似たようなこと言ってる人がいないし眉唾かもしれない。そもそもなんで今更になって感想を書いたのかというと、

キテレツ大百科でキテレツの両親が別居し始めた回のエンディング

 

はじめてのチュウ Hey Jude,
don’t make it bad
涙が出ちゃう 男のくせに

という激オモロギャグを思いついたからであって。あと2022年になったし久しぶりにブログ更新するか~と思ったからで。今年の抱負は定期的に書いたり描いたり掻いたりすること。以上です。

*1:続編の『T2 トレインスポッティング』で20年後のレントンを見ることができる。お察しの通り成長していない。

*2:つまり、エド・シーランは薬物がなくても偉大なアーティストであるに違いないということだ。

『The MISSING - J.J.マクフィールドと追憶島 -』が性癖特盛定食だった話

 『The MISSING - J.J.マクフィールドと追憶島 -』*1というゲームをプレイした。

 

 どうも私は『指輪物語』や『ナルニア国物語』のようなファンタジー作品が苦手な性質だ。しかし世間では高く評価されているわけで、数年前にこのファンタジー嫌い克服のため映画『ライラの冒険 黄金の羅針盤』を観たことがある。

 ところが残念なことにこの映画、途中で視聴をやめてしまった。死体が光の粒になって霧散するというファンタジー昇天表現が気にくわなくてイライラしたのだ。正直言ってグロが得意ではないのだが、かといってそうやって死の描写を避ける作品は嫌いである。死体は死体としてちゃんと描いてくれよ! と憤ったきり、私のファンタジーに対する苦手意識は治っていない(これは完全に私が悪い)。

 

 そんなことはどうでもいい。ゲームの話だ。

 

 命の価値が軽いゲームが好きだ。現実では猫じゃない限り一度きりの人生だが、ゲームの中じゃ無限に死ねる。確かに私は毎日のオナニーによって数億の自身のコピーを無駄死にさせているかもしれないが、それが原因となって毎年アメリカで計上される3761体もの死体の仲間になってしまっては元も子もない*2

 つまり、現実を生きるより死にゲーをやっていたほうが安全なのだ。ゲームの中でリスポーンを繰り返していると、心が洗われてこないだろうか。人間は死と再生を繰り返すことで魂のステージが上がるという教えがあるが、それと同じかもしれない。イライラしてコントローラーを投げつけたくなるって? 煩悩にとらわれて解脱できずに苦しむ仏教徒なんだろう。宗教観の違いである。

 

 死にゲーとはまた別に、演出としてわざと命の価値を軽く扱うゲームもある。当然のように配置された即死トラップが主人公を苦しめる『LIMBO』*3は、あえて画面をモノクロ調にすることでその残虐表現を紛らわさせている。繰り返される流血(しかしその血すら白黒である)に慣れたプレイヤーは次第に、主人公の死を「避けるべきもの」から「積み重ねて当然」のものと錯覚していく。

 『The Swapper』*4も命の価値がわからなくなるゲームだろう。このゲームは自身のクローンを作り、そのクローンに操作を切り替えることで進んでいくパズルアクションだ。操作を切り替えるということは、今まで動かしてきた身体からクローンに意識を乗り換えるということ。歯応えがある謎解きに夢中になっていると忘れがちだが、これまで歩んできた足跡には、仕掛けを乗り越えるために使い捨ててきた身体たち=自分の命が大量に転がっている。

 

 長々と話したが、そういうゲームが好きなのだ。『The MISSING』も風の噂でその手のゲームだと聞いていたので、こないだのSteamサマーセールで買ったわけだ。

 

 確かに命の価値が軽いゲームだった。しかし全く軽いとは言えなかった。

 

 『The MISSIMG』は主人公、J.J.マクフィールドが奇妙な島「追憶島」を探索するアクションアドベンチャーだ。親友のエミリーと共に追憶島にキャンプに来た彼女だったが、目を覚ますと1人きりに。姿を消した親友を探すため、J.J.を操作し危険にまみれた島を進んでいく。

 本作には先に話したタイトルのような、苦痛を薄れさせる工夫がない。むしろ強調しているまである。例えば、瀕死の危機に際し、主人公はそりゃもうめちゃめちゃに悲鳴をあげる。足が千切れれば呻き声を出し、フラフラと片足で歩くさまを見せつけてくる。向かってくる回転刃に怯えるモーションが作られているのを発見したときは、マジか! やべえな! と叫んでしまった。このゲーム、残虐表現に拘り過ぎなのだ。しかしステージを進むためには、そんな無残な仕打ちへ積極的に向かっていく必要がある。自ら切断した肢体を重り代わりに投げ、火だるまになりながら障害物を燃やし、時には頭ひとつで鋸の隙間を通り過ぎなければならない。

 

 いやもうJ.J.のキャラデザといいモーションがいちいち可愛いんですよ。そんな彼女を操ってわざわざ苦痛に向かわせなければならない葛藤たるや! ……最高だった。っていうかこれつまりリョナゲーじゃねーか! 死にたくないけど死亡モーションが見たいから、という理由で主人公をトラップに突っこませたくなるこの感情、『ハナカンムリ〇』*5で味わったそれと同じだ。

 

 『ハナカンムリ〇』もそうだが、この手のゲームの主人公は困難を乗り越えるだけの強い意志を持っている。そうでなければ死を伴う冒険に心が折れてしまうからだ。そして我々は(我々とは?)そんな気骨のある女性が好きなのだ。J.J.がなぜ地獄の苦しみを繰り返し受けてなお、エミリーを見つけ出そうとするのか。その辺のストーリーに絡んだところを話すのは野暮だと思うので割愛する。私はただ単純にエロゲーとして、この作品を勧めたい。みんな『The MISSING』を買って抜こう! いやほんと性癖マシマシだったから!

 

私たちは、たぶん、『天気の子』を心から楽しめる、最初の世代だ。

※当記事は映画『天気の子』のネタバレを多分に含みます。

 

 『天気の子』を見た。いや良かった。いや良くなかった。いや最高だった。新海誠の元カノっぽく言えば「あなたのそういうところが嫌いです 嫌いです でも嫌いになれない どうして」*1って感じだ。

  彼からしてみれば『天気の子』は、既存のオタク文脈に当てはめない、当てはめるほど長くサブカルチャーに触れていない若者に対しての映画なんだろう。しかし私は元カノなので、そんなことは無視して今カノにマウント取っていく(感想を書く)ことにする。

 

目次

 

 

セカイの中心で愛を叫ぶ

 「セカイ系は死んだ」というツイートを見て、むかし付き合ってた新海誠の最新作『天気の子』を見に行こうと決めた。別に未練があったわけではなくて、ただ、仲の良い友人として彼の現状を確認したかったのだ。結論を言うとセカイ系、死んでなかった。というか、死なせてたまるかという意志を感じた。

 セカイ系の定義なんかはめんどくさいので、ここでは雑に「主人公とヒロインという小さなセカイの問題が、間に存在するはずの社会や国家を飛び越えて、世界の危機にそのまま直結する作品」とする。実は、新海誠はこれを主食に生命活動を維持している。社会を拒絶する少年がヒロインの愛によって守られ、最後には少女を失ってしまう……こんな筋書きが大好物すぎて『ほしのこえ』や『雲のむこう、約束の場所』を作ってしまう人物なのだ。シャレオツナルシストポエマーと言ってしまってもよい。でもそんな姿に騙されたのよね、私、ばかみたい…。

 

 さて、そんなセカイ系「意図的に社会を排している」「主人公が消極的選択しかしない」なんて批判されるのだが、それが特徴でもある。『天気の子』でもそれはご多分に漏れない。

 主人公の須賀圭介は、自身を取り巻く環境から逃げるように10代で東京へと家出する。その後、大恋愛の末に結婚、妻と娘と3人で幸せに暮らしていたが、妻が事故死してから自体は急変。ライターという社会的信用のない職や、過去に愛煙家だったこともあり、娘までも妻の両親に引き取られてしまう。物語はそんな須賀がたまたま乗っていたフェリーで、海に落ちそうになった高校生、森嶋帆高を助けるところから始まる。家出したであろう彼に昔の自分を重ねたのだろうか、別れ際、須賀は帆高に自身の名刺を渡す……いや待って欲しい。主人公は須賀ではないのだ。

 真の主人公、森嶋帆高もまた故郷の暮らしに言いようのない嫌気がさし、東京へと家出する。上京先で出会ったヒロイン、天野陽菜は空に祈ることで確実に晴天をもたらす晴れ女だった。なんだいつもの新海誠か。私と別れた後も変わってないのね。

 

 須賀と帆高の違い、それは選択の性質である。従来のセカイ系主人公は自身の選択を自覚しない。だってヒロインに守られてるの心地良いし。でも本作は違う。帆高は積極的選択を重ね、社会から遠ざかっていく。彼の反社会的行動力はすごい。なんたって銃を発砲するのである。ここマジで最高。他人を殺してでも彼女に会いたいんだよな、わかるよ。

 一方で、須賀は消極的選択を繰り返して今に至る。これは新海誠の元カノだけが知っている裏設定だが、実は須賀主人公のセカイ系アニメが存在するのだ。交際していたときに見せてもらいました。作中で須賀は帆高を「もう大人になれよ」と諭すし、陽菜を救った=世界を変えたあとには「気にすんなよ、世界なんてもともと狂ってんだから」と力づける。しかしこれらは帆高に主人公だった頃の自分を重ねての発言、自分自身に対しての言葉だったんじゃないだろうか。「大人になれ」も「気にするな」も、エンディングを知っているからこそ出た台詞だったのだ。

 だから須賀の言葉は帆高には届かない。あれは須賀に対する言葉だから。警察から陽菜の年齢が15歳であることを聞き「俺が一番年上じゃねぇか」って後悔した時にもう大人になってたから。大人になったうえで、社会から逸脱してまで陽菜に会うことを選択したから。めっちゃ良くない? 年齢知るシーン最高だった…。

 ラストシーンなんか叫びそうになったね。帆高が須賀に言われた「気にするな」を反芻しながらあの坂道を歩いていると、陽菜が空に祈っている姿を見つける。それで「世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが世界を変えたんだ」と確信するのだ。でも「僕たちは、大丈夫」なんだよ…。もともと狂っているからじゃない、世界を変えたからこそ大丈夫なんだよな。お前は自分の意志で、強い意志で「きみとぼくのセカイ」を選択したんだもんな。

 

 しかしこの筋書き、冷静に分析したらこうなるんじゃないか?

新海誠セカイ系なんてキモ・オタの妄想だし、批判されるよなあ……。でもセカイ系大好きだし……そうだ! 若者に責任をおっ被せればいいんだ!*2

 そう、この映画はセカイ系好きすぎる新海誠セカイ系を作り続けるために編み出した、いわばセカイ系へのラブレターだったのだ。気ッ持ち悪っ……。本当に楽しいのか? こんな映画。

 

LIVE ALIVE!

 しかしそんな『天気の子』を純粋に楽しめる人がいる。っていうか私だ。私は1994年生まれなのだが、それくらいの世代の人らは多分そうなのだ。セカイ系に浸ってきた40代のオタクや、無責任に主人公にされた10代の若者らにとって、『天気の子』は新海誠の気持ち悪い主張そのものだ。しかし、20代くらいのオタクの目には純然たるエンターテイメントとして映る。

 何故か。日常系で育ってきたからだ。我々(我々とは?)は『らき☆すた』や『みなみけ』や『けいおん!』に浸ってきた。「友人と日常系アニメについて話す」という日常を送ってきた人間なのだ。日常系において社会は忌避されない。むしろ、生きづらいしつまらん社会の中で少しでも楽しく過ごすため、日常に青春とか冒険みたいなロマンを見出そうとする。求めるものだってかつてのオタク「キレる17歳」とは違う。我々はmixi魔法のiらんどから始まるSNSネイティブ「繋がりたがる10代」の最初の世代なのだ。コミュニケーションそれ自体が目的で、それ自体が青春だった。『涼宮ハルヒの憂鬱』を見て、自分も文化祭で「いま何かをやってるっていう感じ」を味わいたいって思ったんだ。

 

 『天気の子』にもそんな人物が登場する。須賀夏美である。須賀の事務所で働くことに見切りをつけてはいるが、履歴書に書ける特技もなく、就活に苦しんでる。けど、オカルト雑誌の取材が嫌ってわけでもないし、叔父が拾ってきた少年をからかうのも楽しいし……あれキミ日常系ラブコメの世界の人? しかしそう考えると、あのまさに男が考えましたって感じの性欲丸出しの容貌にも納得がいく。*3日常系ってそういうフェティッシュ全面押し出しっていうか、記号化されたキャラクターみたいなとこあるもんな(適当)。帆高も陽菜も「何者でもない」「(不特定多数の)少年少女」であるように描かれているが、それを言うなら夏美こそ誰でもいい。なのにワザワザあのシコれるキャラデザにするのである。意図があってしかるべきじゃないだろうか?(謎理論)

  だからこそ、私が『天気の子』で最も感情移入したのは夏美だったのだ。社会とは折り合いをつけてかなきゃいけないし、この世界で生きるのは確かにだるいんだけど楽しいこともある。自分より年上の世代(セカイ系)に対して「ダサっ…」って言えちゃうし、年下の少年少女に「若いね~」って言えちゃう。でも愛のために世界を壊そうとしてる少年を妨げようとは思わないし、そういうロマンが好きだからむしろ応援しちゃう。そう、私は新海誠の元カノじゃなかった。姪だった。

 姪である我々はセカイ系を時代遅れだと思っているが、同時に憧れも持っていて、そんな複雑な感情を『天気の子』は満たしてくれる。あまつさえ、若い世代が世界を変えるという大冒険を映すことで、自分たちも頑張ろう! と勇気づけられるのだ。エナジードリンクみたいなもんである。未視聴の方はぜひキメてほしいと思う。

 

I wish that I could only sing this in the rain

 そもそも私の叔父(新海誠)見せてくれた初めての作品は『秒速5センチメートル』だった。その映画は鬱屈だけどどこか美しくて、こんな素晴らしい映画を作ってもらえる私はきっと特別な存在なのだと感じたんだ。新海誠作品の特徴として、風景描写の美しさが挙げられる。そんな風景を鮮やかに彩るのは天気だ。しかし『秒速』、そんな美しい景色とは対照的にバッドエンドである。鑑賞後にこう思わざるを得ない。遠野貴樹が手紙を風に飛ばされていなければ。篠原明里が雪の中待っていなければ。悪天候でロケットが打ち上げられなかったら…。そんなifを起こし得るきっかけとなるのも天気なのである。日常系を浴びてきた我々にとって世界とは他者との関係性で、新海誠作品においては、その関係性を変えるのは天気というかたちをとる。『言の葉の庭』だって、雨が降らなければ2人の会合は存在しない。

 

 セカイ系も日常系も、リアルでの欠落を二次元で埋めるためにある。社会も誰も守ってくれないという意識が、いつまでもこの楽しい時間が続いてほしいという願望が根底にある。決してそんな理想を「勝ち取る」コンテンツじゃない。現実には時間は過ぎるし、みんな大人になってくし、天気は変えられない。『秒速』をハッピーエンドにもっていくことはできないのだ……えっ『天気の子』はそういう物語? もしかして私のための映画なのでは???

 『天気の子』で描かれるのは、現状に不満があるにも関わらず、より良い未来が与えられることを待つだけの主人公ではもはやない。現実に裏切られたのなら、現実を裏切ればいい。世界は変えられる。っていうか愛のために世界を変えるのズルいよね。それ、我々がもっとも求めていて、でも手にいられなかった理想なんだから。そりゃ応援しちゃうし許しもしちゃうよ。だって私は帆高や陽菜みたいな少年少女たちをライ麦畑でつかまえたいんだから。そんな私たちの心情をRADWIMPSが『愛にできることはまだあるかい』って歌いあげるんだぜ。完璧か。

 

 ちなみにバッドエンドルートだとエンディングが『傘拍子』になる。やっぱりRADじゃねえか!*4 ちょうど「愛にできることはまだあるよ 僕にできることはまだあるよ」のところが「But I'd tried my best I can do(でもできる限りのことはやってきたんだよ)」と対応するの。唸るほど晴天のなか帆高が泣いてる画のバックにそれが流れるの。本来はそういう結末になるところを関係者に「さすがにそれは…」って止められたらしいですよ。(嘘です)

 

 

 以上!!! 良い映画だった!!!!

 

*1:弊ブログはフレデリックを応援しています。

*2:著者の妄想。実際にはこんなこと言ってない(と思う)。

*3:煽りじゃなくて。大好き。もっとやって欲しい。

*4:思えばRADWIMPSも直撃世代である。あの頃の女子中高生みんなRADかUVER聞いてなかったか?

ゆゆ式・オブ・ザ・デッド

 『ゆゆ式』を見た。

 いや、良かった。ハイコンテクストな萌えアニメと聞いていたがその通りだった。女子高生という空間がそこにあった。登場人物が生きている。生活がそこにあった。私が最も印象に残っているのは5話後半である。こんな内容だ。

夜中、野々原ゆずこが友人の櫟井唯に対し電話でしりとりしようと持ち掛けるも、雑にあしらわれてしまう。そこでゆずこはもうひとりの友人である日向縁に対し「しりとり しようぜ!? の、ぜ。」とメールを送るが、縁は入浴中でありしりとりは行われずにその日が終わる。翌朝、いつものように談笑していた3人だったが、唐突に縁がメールのことを思い出し「ゼブラ、ゼブラ~」とゆずこに笑いかける。ところがゆずこは前日のことを忘れており、唯とともに困惑する。

 場面は変わって昼食時、縁が面白い映画をもう一度楽しんで観るため「ゆるい記憶喪失になりたい」と話題提起する。ゆずこはその映画の内容を聞くが、唯による「縁ならそこまでしなくてもしばらく経てば忘れてそう」という予想通り内容はあやふやなものだった。その後、話が全く別のテーマに移っていくなか、ゆずこがお手洗いに立ったところで前夜のことを思い出す。「ランチョンマット!」と縁に投げかけるも、「え? 買いに行くの?」と当の縁はしりとりのことを完全に忘れているのだった。

 すごくないか? 記憶というネタでここまでリアルな小噺、いままで見たことがないぞ。もしかして、この広い世の中を探せばどこかに彼女たちが存在してるんじゃないだろうか。

 さて、本作の特徴であるハイコンテクストながらしょーもない掛け合いだが、特筆すべきはそれを「下らない」と切り捨てる人物がいないところだろう。現実で作中のような会話をしようと思っても、よっぽど仲が良くないと無理だろう。しらーっとなる。ところが、ゆゆ式ではどんな下らない会話でも必ず笑い声が産まれる。登場人物らの親密さが現れているというのもあるだろう。誰も傷つかない優しい世界が描かれているというのもあるだろう。しかし私が思うに一番の要因は、彼女らがしょーもないネタを全力で楽しんでいるということだ。

 

 ルール32、小さいことを楽しめ

 ルーベン・フライシャーによる映画『ゾンビランド』に登場する、ゾンビの世界で生き残るためのルールのひとつだ。本作の主人公であるコロンバスが己に課したこのルールには「家族・友人でも容赦しない」や「人を見たらゾンビと思え」などがあり、頼れるのは自分ひとりという価値観を孕んでいる。ところが、この映画のテーマはその思想とまったく真逆のものだ。

 小さいことを楽しめ。このルールは物語の序盤、コロンバスが中年男タラハシーと出会ったことで追加されたものである。彼らはその後、同じく旅をしていた姉妹のウィチタ、リトル・ロックと出会い、「小さいことを楽し」みながら仲間として絆を深めていく。そして、クライマックスで主人公は「ヒーローになるな」というルールを破ってまで、仲間を助けるという選択をする。ここでは先の、頼れるのは自分ひとりという思想は否定される。一人でただ生き抜くだけでは、何も考えず人肉を求めさまようゾンビと変わらない。より人間らしく、他人と関わり共に信じあって生きてくことが大切だというテーマがそこにある。

 

 最悪な世の中こそ、下らないことを楽しむべきだ。何かに執着しすぎるせいで小さなことも笑えなければ、それはゾンビになることと同等である。ゾンビ・コンテンツではしばしば、執着する人間をゾンビに例えて批判する。ジョージ・A・ロメロは映画『ゾンビ』でショッピングモールに群がるゾンビを、80年代の大量消費社会と重ねて描いた。エドガー・ライトによる映画『ショーン・オブ・ザ・デッド』では、主人公の友人であるゲーム依存の男がゾンビになり、首輪につながれ飼われることになる。そして、そのゾンビと主人公が2人でテレビゲームに興じるシーンで映画が終わる。ゾンビをゲームのように殺す人間こそが、ゲームに依存したゾンビなのだと皮肉っているのだ。

 『ゆゆ式』と同じきらら作品であり、ゾンビ・コンテンツでもある漫画『がっこうぐらし!』でも、この姿勢は描かれる。主人公たちは終末の世界で何度も立ちふさがる問題を、学校行事や人生のイベントに例えて楽しみながら生き抜いていく。「ただ生きていればそれでいい、生き残るために何でもやる」という姿勢を否定する台詞がたびたび見られ、コミックス7巻からの大学編ではそれが特に顕著になる。生き残るために他者を蹴り落とし、自分の価値観を押し通してきた「武闘派」が破滅し、その武闘派と折り合いをつけるため話し合いに臨んできた「穏健派」が生き残るという筋書きは、生に執着するだけの生き方を真っ向から否定している。

 

 『ゆゆ式』とゾンビは関係ないだろう! と突っ込みたくなるかもしれないが、描いているテーマは同じだ(と思う)。冒頭で述べた通り、ゆゆ式に登場する彼女らは生きていて、だからこそそれぞれが葛藤や執着を持っている。決して直接的には描かれないが、リアルな会話群の行間からそれがうかがえる。例えば、縁と唯は小学校からの幼馴染であり、それ故にゆずこは微かな疎外感を覚えている。また、クラス委員長である相川千穂は唯に憧れを抱いているが、ゆずこと縁のことが苦手で、唯がひとりでいる時にしか話しかけない。そんな千穂の唯に対する好意から、唯をライバル視している岡野佳。エトセトラエトセトラ……。

 そんな錯綜する感情により、ちょっとだけ噛み合わない彼女らだったが、しょーもない談笑や些細な出来事をきっかけにして、しだいに打ち解けていくのだ。これはまさしくゾンビ・コンテンツが重要視している*1それだ。特に8話の、佳がコンビニで唯に奢られたことで「スゲー良いやつか?」と心を開いていく様が最高だった。千穂に対する執着を抑え、唯と仲良くなる道を選んだ彼女を見て、私は胸を撫で下ろした。安心した。彼女らのなんでもない日常が、突然ゾンビあふれる世界になったとしても、きっと全員が生き抜いていけるだろう。ゆゆ式は不滅だ。

*1:すべてのゾンビ・コンテンツがそうというわけではない。特に最近(2010年~)の作品に多い

無名なルールで地球を回す

「いえ、それが一向目出度くはござりませぬ。」良秀は、稍腹立しさうな容子で、ぢつと眼を伏せながら、「あらましは出来上りましたが、唯一つ、今以て私には描けぬ所がございまする。」
「なに、描けぬ所がある?」
「さやうでございまする。私は総じて、見たものでなければ描けませぬ。よし描けても、得心が参りませぬ。それでは描けぬも同じ事でございませぬか。」
 これを御聞きになると、大殿様の御顔には、嘲るやうな御微笑が浮びました。
「では地獄変の屏風を描かうとすれば、地獄を見なければなるまいな。」

                      ――芥川龍之介地獄変*1

 

 1983年、アメリカでラジオドラマとして放送されたH・G・ウェルズ宇宙戦争』を、「現実の出来事」と誤解し多くの人々がパニックに陥ったという有名なエピソードがある。

 今でこそ一体なにを学んでいるんだ状態だが、一応メディア専攻の学生なので、それくらいは知っとけよという感じで教えられた。この事件はそのまま通信技術の歴史とか、マスコミの異議とかに繋げて語られる。(これがそんなに面白くなかったので留年を続けている)

  確かにメディアとかその手のアレからしてみれば事件だが、しかしフィクションの観点からみると、これは喜ばしいエピソードなんじゃないだろうか。自分の書いた小説が現実に浸蝕するほどの影響力を持つというのは、作品ひいては作家のひとつの極致であるような気もする。*2

 

 しかし、受け手が現実と間違えるほどのフィクションを作るために、作者はどういう表現をすればよいのだろうか。天体を、物理法則を、登場人物の心情を、より精密に描けばよいのか。私が思うに、それでは陳腐な――それこそ何の面白みもない、ただの現実を映したものになるだけではないだろうか。

 

 小中千昭『恐怖の作法』によると、リアルとリアリティは別のものらしい。ホラー映画において大事なのは「本当らしく見える」事であり、観客が求めているものは「本当らしく見せてくれているのか」なのだと氏は語っている。映画内の出来事が現実に即しているかどうかなんて、観客にとってはどうでも良いのだ。

 A・ヒッチコックも似たようなことを言っている。「最近の若い監督は舞台田の小道具だのにこだわるが、そんなことは重要じゃない。カメラが切り取った世界こそが真実だ」とかなんとか。『定本 映画術』に書いてあった。そういえば、氏賀Y太も内蔵描写なんてそれっぽくやることが一番って言ってた気がする。子宮の構造なんて読者はよく知らんやろって。

 

 では、リアリティとは何だろうか。それはルールなんじゃないだろうか。

 

 話は変わるが、私は高校時代、演劇部に所属していた。だからというわけでもないが、今でもごくたまーに観劇しに出掛ける。高尚な趣味ってやつだ。考えてみれば、演劇はとても不自然な芸術である。日常会話をあんな大声でしないし、身振り手振りも過剰だ。わざわざ観客を見て台詞を言うのは当然、正面を向いた2人の掛け合いが行われるなんてこともある。
 しかし、そんな演出でもなお、観客はそれを自然に消化する。それどころか、ものによっては「リアルだった」と感想を残すことさえある。何故ならそこにはルールがあるからだ。演劇の最小構単位は2人(役者と観客)というルールが、客席を意識した不自然な行動を立ち消えさせる。*3こうして、たとえ目に映るものが非現実的であろうとも、そこにリアリティが産まれるのだ。たぶん。

 

 ところで、これらは物語性のある創作への考察だ。しかし私の行っている創作は主にアレ(アンビグラム)である。アンビグラムにはリアルもリアリティもない。いや、ないってわけじゃないんだが、それよりも確かに存在するのはルールだ。ルールがあるのなら、逆説的にそこにひとつの現実――世界を創り上げることも可能だといえる。

 アンビグラムを雑に定義すると、「2つ以上の異なる読み方を同一の文字に落とし込んだデザイン」である。その読み方、つまりルールによって、いくつかの種類に分類することができる。実のところその辺り私はあまり明るくないので、詳しくは以下を参照して頂きたい。

2969.hatenablog.com

repeza.hatenablog.com

 

 さて、前回の記事で「作品そのものが目的であって、だからこそ創作に目的がない」と書いた。

pigeon-shortage.hatenablog.com

 私がアンビグラム作りを始めたきっかけは、「もうネットに公開されている作品は全部見てしまった。しかし、まだ満足できない。もっと見たい」という思いからだった。自給自足といえば聞こえはいいが、本音を言うと仕方なく作っている次第だ。誰かが腹を満たしてくれるなら、わざわざ自分でやる必要はない。私は、究極的にはアンビグラムを作りたくはないのだ。

 

 しかし私が見たいアンビグラムは「敷詰式図地反転」という、残念ながら作例の少ないマイナーなものだった(敷詰ryがどーいうのかは、こーいうのです。拙作且つ雑説明で申し訳ない)。そこで、ここ2年間、この誰も作っていないルールを定着させることに尽力することにした。……してきたんです。実は。

  その結果、ありがたいことにぽつぽつとではあるが作例が増えてきた。そしてとうとう、その極致に達した気がする。

 

 下図は『月刊「アンビグラム」』についての、意瞑字査印氏とのDMのやり取りである。

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 氏からメッセージが来たとき、私は「『陸/海』の敷詰図地、見たいな~~!! ウワァ~それにすりゃよかった! 今やってるの終わったらそれ作るか~~~???」と葛藤した。が、すぐに「……アッ別に俺が作る必要はないのか! 誰か知らんが作ってくれてるのか!! ありがてぇ~~~!!!」と気づき天を仰いだ。

  そう、私はとうとう「私が作らないでも私の見たいものが勝手に生産される世界」という理想郷を創り出すことに成功したのだ。ルールの共有を推し進め、世界を手中に収めたと言っても過言ではない。神にでもなった気分だ。というわけで下々の皆さんは神に献上するための創作をじゃんじゃんやって下さい。

 

 なんか前半と後半で論展開ムチャクチャになってしまった。はい。こちらからは以上です。

 

 

 以下、本文中に登場した文献である。

 

小中千昭『恐怖の作法|河出書房新』

 氏がJホラーを撮る上で徹底してきた「小中理論」など、人が恐怖するシステムを多方面から論じた一冊。個人的には、ネット都市伝説に見られる連鎖型会談「自己責任系」の研究が面白かった。

 

www.kawade.co.jp

 

A・ヒッチコック、F・トリュフォー『定本 映画術|晶文社

 映画界の巨匠2人による対談形式になっており、ヒッチコックが自身の監督作について、そのテクニックや理論を語っている。定期的に借りては読んでるので、もういっそ買ってしまいたいんだが高い。

www.shobunsha.co.jp

 

 

*1:引用したはいいけど、特に教訓めいたものはない

*2:この事件はラジオ演出の妙などによって引き起こされたもので、ウェルズの作品自体によるアレだけではないというのは承知である。

*3:これ大昔にどこかで聞いた気がするのだが、ソースが思い出せない。

私は廃墟になりたい

公表という過酷な踏み絵を踏むまでの、おのれの詩人や作家としての才能に対する思い込みは、自分は死なないという若者の思い込みに似て、ナイーブで無害であり……やがてかならず訪れる幻滅もまた、同質の苦痛に満ちている。

                     ――ダン・シモンズハイペリオン』 

 

 私は廃墟になりたいのだと思う。

 

 世の中には嫌いであるにもかかわらず、絵を描く人がいるらしい。絵描きとつながるためだけに絵を描く。それが楽しい。しかし、絵を描くこと自体は楽しくない。

 この事実は私に2つの衝撃をもたらした。嫌いなことをしてまで他人とつながりたいのか。そして、絵を描くことに目的が必要なのか。

 

 創作に目的が必要なのか。

 

 数年前、3Dプリンターを作ろうとしたことがある。結局完成していないのだが、まァそれはいい。

 友人にこう聞かれた。「それで、3Dプリンターで何を作るんだ?」

 私はこう答えた。「そんなこと考えたことなかった」

 このとき、私は「作りたいから作る」という気持ちしかなかった。そもそも、何においても私の原動力はそれしかないのだと思う。

 

 作りたいから作る。作品そのものが目的であって、だからこそ創作に目的がないとも言える。でも、それでいいのだろうか?

 

 作品ってやつは、鑑賞者がいないと成り立たない気がする。鑑賞者がいれば、作品には何らかの価値が生まれる。仮に価値なしとされても、そう評価されるだけで御の字だ。鑑賞者のいない作品は、価値のスケールにすら乗っていない。もはや路上の石ころと同じである。

 だから作品には鑑賞者を前提としたアレコレが込められる。テーマとか、ターゲットとか、何かしら伝えたいとする想いが。そして、そこには目的がある。共感してほしいとか、ある程度の名誉がほしいとか、それこそ、絵描きとつながりたいとか。

 

 これが私を苦悩させた。というのも、何かを作るだけじゃ腹は膨れないのだ。私は最低限文化的な生活がしたい。作品のための作品と言いつつも、価値を認められ、あまつさえ腹を満たしてくれというのが本音である。

 それと同時に、作りたいから作るというスタンスを崩したくないという想いもある。冒頭にあるのは、SF小説ハイペリオン』から引用した一文だが、私は恐らくこれなのだ。結局、公表という踏み絵を避け続けているだけなのかもしれない。

 

 さて、目的のない作品は評価されないのかというと、実のところそうでもない。ということに最近気づいた。

 自然ってのがある。自然には目的がない。いや、もしかしたら目的をもっているのかもしれないが、鑑賞者を想定してはいないだろう。しかし我々は荘厳な山を、雄大な海を、もしくは路上の石ころをも、鑑賞に値するものと見なすことがある。彼らはただ思い思いに己を形作っているだけなのに。

 

 そうすると、作品そのものが目的であってもいいのだ。鑑賞者のことを考えず、ただ自分の、作りたいから作るという考えのままでも、いいのだ。たぶん。

 

 だから私は廃墟になりたい。

 ちょうど自然と人工物が半々の。

 私が廃墟に魅入られるのも、そういう深層心理から来るものなのかもしれない。