鳩不足

主に自分語り用

私たちは、たぶん、『天気の子』を心から楽しめる、最初の世代だ。

※当記事は映画『天気の子』のネタバレを多分に含みます。

 

 『天気の子』を見た。いや良かった。いや良くなかった。いや最高だった。新海誠の元カノっぽく言えば「あなたのそういうところが嫌いです 嫌いです でも嫌いになれない どうして」*1って感じだ。

  彼からしてみれば『天気の子』は、既存のオタク文脈に当てはめない、当てはめるほど長くサブカルチャーに触れていない若者に対しての映画なんだろう。しかし私は元カノなので、そんなことは無視して今カノにマウント取っていく(感想を書く)ことにする。

 

目次

 

 

セカイの中心で愛を叫ぶ

 「セカイ系は死んだ」というツイートを見て、むかし付き合ってた新海誠の最新作『天気の子』を見に行こうと決めた。別に未練があったわけではなくて、ただ、仲の良い友人として彼の現状を確認したかったのだ。結論を言うとセカイ系、死んでなかった。というか、死なせてたまるかという意志を感じた。

 セカイ系の定義なんかはめんどくさいので、ここでは雑に「主人公とヒロインという小さなセカイの問題が、間に存在するはずの社会や国家を飛び越えて、世界の危機にそのまま直結する作品」とする。実は、新海誠はこれを主食に生命活動を維持している。社会を拒絶する少年がヒロインの愛によって守られ、最後には少女を失ってしまう……こんな筋書きが大好物すぎて『ほしのこえ』や『雲のむこう、約束の場所』を作ってしまう人物なのだ。シャレオツナルシストポエマーと言ってしまってもよい。でもそんな姿に騙されたのよね、私、ばかみたい…。

 

 さて、そんなセカイ系「意図的に社会を排している」「主人公が消極的選択しかしない」なんて批判されるのだが、それが特徴でもある。『天気の子』でもそれはご多分に漏れない。

 主人公の須賀圭介は、自身を取り巻く環境から逃げるように10代で東京へと家出する。その後、大恋愛の末に結婚、妻と娘と3人で幸せに暮らしていたが、妻が事故死してから自体は急変。ライターという社会的信用のない職や、過去に愛煙家だったこともあり、娘までも妻の両親に引き取られてしまう。物語はそんな須賀がたまたま乗っていたフェリーで、海に落ちそうになった高校生、森嶋帆高を助けるところから始まる。家出したであろう彼に昔の自分を重ねたのだろうか、別れ際、須賀は帆高に自身の名刺を渡す……いや待って欲しい。主人公は須賀ではないのだ。

 真の主人公、森嶋帆高もまた故郷の暮らしに言いようのない嫌気がさし、東京へと家出する。上京先で出会ったヒロイン、天野陽菜は空に祈ることで確実に晴天をもたらす晴れ女だった。なんだいつもの新海誠か。私と別れた後も変わってないのね。

 

 須賀と帆高の違い、それは選択の性質である。従来のセカイ系主人公は自身の選択を自覚しない。だってヒロインに守られてるの心地良いし。でも本作は違う。帆高は積極的選択を重ね、社会から遠ざかっていく。彼の反社会的行動力はすごい。なんたって銃を発砲するのである。ここマジで最高。他人を殺してでも彼女に会いたいんだよな、わかるよ。

 一方で、須賀は消極的選択を繰り返して今に至る。これは新海誠の元カノだけが知っている裏設定だが、実は須賀主人公のセカイ系アニメが存在するのだ。交際していたときに見せてもらいました。作中で須賀は帆高を「もう大人になれよ」と諭すし、陽菜を救った=世界を変えたあとには「気にすんなよ、世界なんてもともと狂ってんだから」と力づける。しかしこれらは帆高に主人公だった頃の自分を重ねての発言、自分自身に対しての言葉だったんじゃないだろうか。「大人になれ」も「気にするな」も、エンディングを知っているからこそ出た台詞だったのだ。

 だから須賀の言葉は帆高には届かない。あれは須賀に対する言葉だから。警察から陽菜の年齢が15歳であることを聞き「俺が一番年上じゃねぇか」って後悔した時にもう大人になってたから。大人になったうえで、社会から逸脱してまで陽菜に会うことを選択したから。めっちゃ良くない? 年齢知るシーン最高だった…。

 ラストシーンなんか叫びそうになったね。帆高が須賀に言われた「気にするな」を反芻しながらあの坂道を歩いていると、陽菜が空に祈っている姿を見つける。それで「世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが世界を変えたんだ」と確信するのだ。でも「僕たちは、大丈夫」なんだよ…。もともと狂っているからじゃない、世界を変えたからこそ大丈夫なんだよな。お前は自分の意志で、強い意志で「きみとぼくのセカイ」を選択したんだもんな。

 

 しかしこの筋書き、冷静に分析したらこうなるんじゃないか?

新海誠セカイ系なんてキモ・オタの妄想だし、批判されるよなあ……。でもセカイ系大好きだし……そうだ! 若者に責任をおっ被せればいいんだ!*2

 そう、この映画はセカイ系好きすぎる新海誠セカイ系を作り続けるために編み出した、いわばセカイ系へのラブレターだったのだ。気ッ持ち悪っ……。本当に楽しいのか? こんな映画。

 

LIVE ALIVE!

 しかしそんな『天気の子』を純粋に楽しめる人がいる。っていうか私だ。私は1994年生まれなのだが、それくらいの世代の人らは多分そうなのだ。セカイ系に浸ってきた40代のオタクや、無責任に主人公にされた10代の若者らにとって、『天気の子』は新海誠の気持ち悪い主張そのものだ。しかし、20代くらいのオタクの目には純然たるエンターテイメントとして映る。

 何故か。日常系で育ってきたからだ。我々(我々とは?)は『らき☆すた』や『みなみけ』や『けいおん!』に浸ってきた。「友人と日常系アニメについて話す」という日常を送ってきた人間なのだ。日常系において社会は忌避されない。むしろ、生きづらいしつまらん社会の中で少しでも楽しく過ごすため、日常に青春とか冒険みたいなロマンを見出そうとする。求めるものだってかつてのオタク「キレる17歳」とは違う。我々はmixi魔法のiらんどから始まるSNSネイティブ「繋がりたがる10代」の最初の世代なのだ。コミュニケーションそれ自体が目的で、それ自体が青春だった。『涼宮ハルヒの憂鬱』を見て、自分も文化祭で「いま何かをやってるっていう感じ」を味わいたいって思ったんだ。

 

 『天気の子』にもそんな人物が登場する。須賀夏美である。須賀の事務所で働くことに見切りをつけてはいるが、履歴書に書ける特技もなく、就活に苦しんでる。けど、オカルト雑誌の取材が嫌ってわけでもないし、叔父が拾ってきた少年をからかうのも楽しいし……あれキミ日常系ラブコメの世界の人? しかしそう考えると、あのまさに男が考えましたって感じの性欲丸出しの容貌にも納得がいく。*3日常系ってそういうフェティッシュ全面押し出しっていうか、記号化されたキャラクターみたいなとこあるもんな(適当)。帆高も陽菜も「何者でもない」「(不特定多数の)少年少女」であるように描かれているが、それを言うなら夏美こそ誰でもいい。なのにワザワザあのシコれるキャラデザにするのである。意図があってしかるべきじゃないだろうか?(謎理論)

  だからこそ、私が『天気の子』で最も感情移入したのは夏美だったのだ。社会とは折り合いをつけてかなきゃいけないし、この世界で生きるのは確かにだるいんだけど楽しいこともある。自分より年上の世代(セカイ系)に対して「ダサっ…」って言えちゃうし、年下の少年少女に「若いね~」って言えちゃう。でも愛のために世界を壊そうとしてる少年を妨げようとは思わないし、そういうロマンが好きだからむしろ応援しちゃう。そう、私は新海誠の元カノじゃなかった。姪だった。

 姪である我々はセカイ系を時代遅れだと思っているが、同時に憧れも持っていて、そんな複雑な感情を『天気の子』は満たしてくれる。あまつさえ、若い世代が世界を変えるという大冒険を映すことで、自分たちも頑張ろう! と勇気づけられるのだ。エナジードリンクみたいなもんである。未視聴の方はぜひキメてほしいと思う。

 

I wish that I could only sing this in the rain

 そもそも私の叔父(新海誠)見せてくれた初めての作品は『秒速5センチメートル』だった。その映画は鬱屈だけどどこか美しくて、こんな素晴らしい映画を作ってもらえる私はきっと特別な存在なのだと感じたんだ。新海誠作品の特徴として、風景描写の美しさが挙げられる。そんな風景を鮮やかに彩るのは天気だ。しかし『秒速』、そんな美しい景色とは対照的にバッドエンドである。鑑賞後にこう思わざるを得ない。遠野貴樹が手紙を風に飛ばされていなければ。篠原明里が雪の中待っていなければ。悪天候でロケットが打ち上げられなかったら…。そんなifを起こし得るきっかけとなるのも天気なのである。日常系を浴びてきた我々にとって世界とは他者との関係性で、新海誠作品においては、その関係性を変えるのは天気というかたちをとる。『言の葉の庭』だって、雨が降らなければ2人の会合は存在しない。

 

 セカイ系も日常系も、リアルでの欠落を二次元で埋めるためにある。社会も誰も守ってくれないという意識が、いつまでもこの楽しい時間が続いてほしいという願望が根底にある。決してそんな理想を「勝ち取る」コンテンツじゃない。現実には時間は過ぎるし、みんな大人になってくし、天気は変えられない。『秒速』をハッピーエンドにもっていくことはできないのだ……えっ『天気の子』はそういう物語? もしかして私のための映画なのでは???

 『天気の子』で描かれるのは、現状に不満があるにも関わらず、より良い未来が与えられることを待つだけの主人公ではもはやない。現実に裏切られたのなら、現実を裏切ればいい。世界は変えられる。っていうか愛のために世界を変えるのズルいよね。それ、我々がもっとも求めていて、でも手にいられなかった理想なんだから。そりゃ応援しちゃうし許しもしちゃうよ。だって私は帆高や陽菜みたいな少年少女たちをライ麦畑でつかまえたいんだから。そんな私たちの心情をRADWIMPSが『愛にできることはまだあるかい』って歌いあげるんだぜ。完璧か。

 

 ちなみにバッドエンドルートだとエンディングが『傘拍子』になる。やっぱりRADじゃねえか!*4 ちょうど「愛にできることはまだあるよ 僕にできることはまだあるよ」のところが「But I'd tried my best I can do(でもできる限りのことはやってきたんだよ)」と対応するの。唸るほど晴天のなか帆高が泣いてる画のバックにそれが流れるの。本来はそういう結末になるところを関係者に「さすがにそれは…」って止められたらしいですよ。(嘘です)

 

 

 以上!!! 良い映画だった!!!!

 

*1:弊ブログはフレデリックを応援しています。

*2:著者の妄想。実際にはこんなこと言ってない(と思う)。

*3:煽りじゃなくて。大好き。もっとやって欲しい。

*4:思えばRADWIMPSも直撃世代である。あの頃の女子中高生みんなRADかUVER聞いてなかったか?